「鯛焼きひとつ、鯛抜きで」

クリープハイプとPublic Relationsが好きな、webライターの雑記

クリープハイプと浅野いにおと「男らしさ」–サブカル野郎の「いけ好かなさ」−

f:id:chainsaw828:20200529125923p:plain

 

クリープハイプが好きだ

クリープハイプが好きだ。

尾崎世界観がフロントマンの4人組ロックバンド、クリープハイプ『イト』菅田将暉主演の映画『帝一の國』の主題歌となったり、『憂、燦々』資生堂アネッサのCMソングとなったり、今や知らない人の方が少ないだろう。1/22にリリースされたAC部とのコラボ曲『愛す』も大きな話題を呼んだ。『愛す』のジャケットオシャレで好きよ。クリープハイプ感そんなにないけど。クリープハイプ感ってなんだ? それについては後で話す。

今から少し話をしよう。 

中学1年生の私は、 びっくらこいた。当時メジャーデビュー直前だったクリープハイプの『ウワノソラ』をYouTubeで見つけ、「音楽でこんなに感情をむき出しにすることが許されるのか」と。

 

 

もはや耳障りといえる尾崎世界観の声は、私の左耳だけでなく両耳にヒッカキキズを残した。いろんな意味で優しく包んでくれることなく、放り出された私はずぶずぶとクリープハイプに溺れたのだった。 

厨二病とはよく言ったもので、中学2年生の頃の私は差異こそが彩・才だと思っていた。他の人と違う俺カッケー。当時インディーズだったクリープハイプを聴いている人は周りにいなかったし、曲中に出てくる歌詞の過激さも相まって、中学生の私にとってはご馳走でしかなかった。『HE IS MINE』の「今度会ったら セックスしよう」などは有名なフレーズで、現在もライブで絶賛叫ばれている。

※多感なお年頃だった頃、みなさん一度は「エッチング」を辞書で引いたことがあるのではなかろうか。つまり、そういうことだ。

ではどうして今もクリープハイプが好きなのか。

 

答えはシンプルだ。

嫌いになる要素がないからだ。

 

初期は自作「ぽこちん」Tシャツを着て騒ぐファンが跋扈していたものの、現在はファンのマナーの悪さは議論の俎上に上がることが(ほぼ)ない。ファンを類型化して「キモい」と叩くアンチは多いが、ライブに行っても「全員に共通する特徴」は「クリープハイプが好き」以外は特に感じられない。不当な一般化はよくない。

クリープハイプを嫌う人の多くは「メンヘラ御用達」「サブカル野郎が好きそう」と言う。声にはクセがあるし、嫌いな人がいることは重々承知している。歌詞に対して「はいはい、サブカル系が好きそうですわ、俗な生活感がにじみでる感じね」「爛れつつも虚無感に浸れるどうしようもない自分カッケーとか思ってんでしょ、乙」と思う人もいるだろう。至極ごもっともである。

冷静に考えれば、クリープハイプの歌詞に共感できる方が奇妙だ。別に風俗で働いて「もの凄い大きいヤツに当たった」こともないし、誰かが稼いできたお金でノルマを払ったこともない。

 

でも、好きなのだ。

耳障りな声が好きだ。俗なくせにレベルの高い、言葉遊びまみれの歌詞が好きだ。フォーク調で滔々と吐露する曲も、トゲトゲと感情を爆発させる曲も、「わざとキャッチーにした」曲も、全部好きだ。収まりのいいビジュアルも好きだ。グッズやジャケットに嫌いな緑があまり使われないところも好きだ(メジャー4枚目のアルバム『世界観』のデザインには驚いたし、買うか悩んだ)。全部ひっくるめて、クリープハイプらしさ。

ほら、嫌いになる要素がない。

自分のことなんて1mmも投影していない。投影するなんておこがましい。共感なんていらないのだ。

尾崎世界観という人間そのものが生々しく(バナナマン風に言うと、ムーゴーではなく)感じられるから好きだ。初期の楽曲では「どう考えても実体験織り交ぜとるやろ」が散見される。そんな、自分の知らない世界に住む住人「尾崎世界観」をさらけ出してくれている感が好きだった。

 

クリープハイプの魅力については語るとキリがないので、これくらいにしよう。冷たい位がちょうどいい。もしがっつりやるなら、一曲一曲丁寧に解釈したいし。手垢まみれでしょうけどね。

 

 

浅野いにおが好きだ

浅野いにおが好きだ。

ソラニン』『おやすみプンプン』『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(通称『デデデデ』)などでおなじみの漫画家、浅野いにお。現在は『ビッグコミックスピリッツ』で『デデデデ』を連載している。

 

 

忘れもしない、2012年。中学2年生のこと。海浜幕張未来屋書店で、私は運命の出会いをした。

プンプンはその日

学校に行くのが

憂鬱で仕方ありませんでした。

なぜなら、

クラスのアイドルの

ミヨちゃんが転校してしまったからです。

(『おやすみプンプン』1巻, p.6)

ミヨちゃんとの思い出は

一年前の下校中、

いじめられっ子の吉川さんに

砂利を食べさせている

ミヨちゃんを見つけた時。

「二人だけの秘密だからね!!」

後にも先にも喋ったのはこれきりでしたが、

プンプンはミヨちゃんが好きでした。

(『おやすみプンプン』1巻, p.7)

「な”に!? セックスってな”に!?」

「しーっ!! 声でかいし!! 小松っちゃんには教えんのやめた!!」

(『おやすみプンプン』1巻, p.8)

刺激的だった。

『家庭教師ヒットマンREBORN!』と『あたしンち』(奇しくも土曜日にアニメをやっていた両作品だが、特別な意図はない。謎の偶然である)しか知らなかった私は、この3ページだけでノックアウトされた。TKO。トンデモコンテンツでオーマイゴッド。

何だこれは。

写実的な背景、個性的なキャラデザイン、人間でありながら1人だけデフォルメされた主人公(正確に言えばプンプンの家族のみヒヨコのようなタッチになっているわけだが、1巻の序盤時点ではプンプンしか登場しない)。なんだこれは。少年ジャンプにこんな作品無かったし、友情・努力・勝利などもってのほかだったわけだ。

 

私の知らない、もう1つの世界がそこにはあった。

中学生の頃は『おやすみプンプン』が連載中だったこともあり、プンプンを追いかけながら他の作品も片っ端から集めていた。『虹ヶ原ホログラフ』『素晴らしい世界』(今は新装版が出ていますね)『ひかりの町』エトセトラ。

※ちなみに、一番好きなのは『うみべの女の子』だ。『うみべの女の子』の良さについては絶対語る。私が学生のうちに。

 

夢中だった。

そして、今も夢中だ。

 

浅野いにおは、現実なわけない物語から「どうしようもない現実」スメルを漂わせる能力がトガり過ぎている。背景がほぼトレースであることを叩かれがちだが、むしろそれがいびつなリアルを演出するのになあ、と思ってしまう。 自分の知らない、救いのない現実(と演出されているフィクション)を演出する最高のスパイスだが、これがいかにも「サブカル系が好きそう」で「いけ好かない」んだろうな。「非情な現実わかっている俺カッケー、とか思ってんだろ?」と。

浅野いにおが嫌いな人の多くは、これを「メンヘラ御用達」「サブカル野郎が好きそう」と言う。

 

あれ? これってクリープハイプもだよな。

 

実在しない「サブカル野郎」

クリープハイプ浅野いにおも、好きなものとして挙げると「サブカル野郎が好きそう」と言われてしまう。

otonaninareru.net

 

anond.hatelabo.jp

 

でも、「サブカル野郎」って何者なのだろう。

細身でマッシュの塩顔バンドマン?

どこからきたんだ、このイメージは。外見と趣味のイメージに因果関係がない。

当方、肩幅広めのケチャップ顔である。楽器は中学校で習ったリコーダーが関の山、髪はマッシュと呼ぶよりただのもっさり。こんな人間が、趣味だけ「サブカル野郎」なのだ。

 

正直、細身でマッシュの塩顔バンドマンで浅野いにおクリープハイプが好きな人間を見たことがない。外見の条件を満たしている知り合いを見てみると、星野源と坂道系アイドルがそれなりに好きで、『鬼滅の刃』を「ゆーてそんなおもろくないっしょwww」と言っている。

 

……思うに、「サブカル野郎」は概念なのではないか?

批判されるサブカル男子など存在せず、自分と趣味の合わない「いけ好かないヤツ」を批判するために、この概念を作り出したのではないか。

冷静に考えて欲しい。細身でマッシュの塩顔バンドマンなんて、モテる要素が詰まっているではないか。「モテ」が正義とされている現代日本において、モテる人間にはルサンチマンを抱く。そんな人間たちが、「いけ好かないヤツ」と「いけ好かない趣味」を結びつけた。

 

「男らしさ」ゲームから脱出したヤツへの「いけ好かなさ」

では、クリープハイプ浅野いにおの「いけ好かなさ」は何に由来するのだろうか。

クリープハイプ浅野いにおも、作品において露骨に自身の性体験を「登場人物のもの」という体で語る。でも明らかに自分の経験入れ込んでるだろ、いやこのバンドマン/漫画家お前だろ、と言いたくなる場面は多い。

 

私は、彼らのように芸術表現という手段で性愛を語れる男性に対する男性の僻みが、浅野いにおクリープハイプとそれらを「好き」と公言できる男性への「いけ好かなさ」を生んでいる気がしてならない。ライターの杉田俊介は以下のように述べている。

 

男たちは性愛の痛みや傷に対し、真っ直ぐに向きあうことができない、ということでもある。だからこそ、問題のありかそのものが覆い隠され、自己隠蔽されて、痛みや傷が無意識の底へと沈んでしまうのだ。

男性たちは、性や恋愛について、なかなかフラットに話しあうことができない。日常的なホモソーシャルな空気とは、たとえば−−。(1)互いの能力や強さをすぐに競いあってしまう。(2)これまでの恋愛や性の「武勲」を、猥談的に誇ってしまう。(3)性の問題をネタ化し、からかいやハラスメントの対象にしてしまう。(4)弱さや恐怖を他人に打ち明けることは男らしくない、という(メタな)抑圧がある。(5)他人と何かを真剣に語ろうとすれば、それ自体が、「男同士が腹を割って話しあう」というホモソーシャルな空気に支配されてしまう。等々。(杉田俊介非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』p.118-119)

 

性愛を語りたいのに「強い男性像」に縛られ語れない男性たちが、自己の性愛をキャラクターのものとして語れているクリープハイプ浅野いにお、そしてそれらを好むと公言できる男性に嫉妬する……あぁ、細身の男性に対する「いけ好かなさ」も、「男らしさ」(ここではマスキュリニティと言った方がしっくりくる)から逸脱しながら「モテる」特権階級にいる彼らへの苛立ちがあるのではなかろうか。

 

クリープハイプの『キケンナアソビ』を聴きつつ、細身でマッシュの塩顔バンドマンに思いを馳せる。「男らしさ」の桎梏ぐっない(Suchmos『STAY TUNE』のリズムに合わせると気持ちよく発音できる)。ちなみにSuchmosは『STAY TUNE』と『VOLT-AGE』しか知らない。

いつかサブカル男子を名乗りたいもんですね。Good night。