「鯛焼きひとつ、鯛抜きで」

クリープハイプとPublic Relationsが好きな、webライターの雑記

君が『君が君で君だ』と言っても、私は「私が私で私だ」と言えない - 松居大悟と他者理解の不可能性 -

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もしもボックスって「もしもし」とかかっているんですね

22歳の晩春、ようやく気づきました。

皆さんは、「もしもの話」好きですか?

「もしも空が飛べたら」

「もしもあの時に戻れたら」

「もしも透明人間になれたら」

「もしももしもボックスがあったら」

 

「もしもの話」なんてしても無駄だ、と言う人がいますが、私は「もしもの話」が大好きですし、無駄だとは思いません。

たとえば、「もしも空が飛べたら○○をしたい」と話す・願うことは、空を飛べるようになれば実現可能になるものについて考えることです。すると人間は、「○○をするために空を食べるようになろう」と努力することができます。

目的地知らずに階段登れ、って言われても無理なわけで、目的地を思い描くこと自体が無駄、っていうのはちょいと違うのではないでしょうか。

 

では、もしも「自分の好きな人は◯◯さんが好きだ」と知った時、あなたならどうしますか?

 

君が君で君だ

 

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皮肉な愛の物語

今更ながら、松居大悟監督の『君が君で君だ』をAmazon Primeで観ました。

こちらの作品は、端的に言えば同じ女性をストーキングする野郎3人の話。彼らは、愛する女性が「曲は尾崎豊、見た目はブラッド・ピット、性格は坂本龍馬が好き」と知り、池松壮亮尾崎豊満島真之介ブラッド・ピット大倉孝二坂本龍馬になります。

今までの人生を捨てて、服も生い立ちも全て「好きな人の好きな人」になり、「守る」と称して、向かいのアパートから毎日愛する女性を監視するわけです。

「守る」と言いながら、彼らは彼女に干渉しません。彼女に彼氏ができたら王子(今回の記事ではあえて彼を登場させません。話がさらに複雑になるので……)と呼び、彼女が捨てたゴミは回収して3人で山分けする。しかし、決して姿を現さない。さらに言うなら、借金取りが彼女の家に乗り込んできても何もしないし、挙げ句の果てに自殺も止めようとしない。皮肉なことに、守ると言っておきながら、何も守れていないんです。

……いや、違いますね。作中で借金取り(YOU)が「お前らは自分たちの国を守ってんだろ?!」と言っていますが、彼らは「彼女のことを好きな自分」を全力で守っているわけです(ここは、後ほど話す「彼女を媒介とした関係構築」と関係があるので後述)。

実は、坂本龍馬だけは元彼。2人とは彼女への想いが少し異なります。3人でクラスアパートの柱に鎖で繋がれ、坂本龍馬であると言い聞かせ(言い聞かされ)ている状態。ゆえに、彼女が自殺を試みた時、彼は首輪を外しました。「坂本龍馬」を捨てたわけですね。

なんてアイロニカルなんでしょう。「好きな人の好きな人」でいることを捨て、「好きな人が振った自分」になるわけです。そのくせ、彼女の目の前に現れた時、名乗るのは「坂本龍馬」ですよ。人間のわがままっぷりを巧みに描きすぎ。よく考えてみれば、彼女は「性格は坂本龍馬が好き」であって、坂本龍馬の見た目は別に好きではありませんから、坂本龍馬であることを拒絶した彼はどうあがいても彼女と結ばれるはずなかったわけです。

 

「美しい」とされる愛を、「醜い」ものとして魅せる

 

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この作品の名シーンは、やはり尾崎豊が髪を食べ始めるシーンでしょう。

ストーカー行為がばれ、愛する女性が自分たちの部屋「国」に乗り込んできた時、尾崎豊は彼女に一切触れませんでした。ただ、彼女の「素敵なお嫁さんになりたい」という想いに答えるため自作のウエディングドレスを渡すわけです。しかし、彼女はそれを拒絶したうえ、尾崎豊がその場で褒めた髪の毛を自分で切り始めます。

ここからがすごい。「彼女の全てを愛する」と決めた尾崎豊は、彼女が自分で切った髪を部屋中から拾い集めて、ムシャムシャ食べ始めるわけです。「彼女の想いを受け止めたいから」と。髪の毛を食べるところで、この計画の発案者だったブラッド・ピットは脱落。尾崎豊だけが、無心で髪の毛を食べるわけですね。

「君の全てを受け入れたい」なんて美辞麗句の代表例を、こんなにも醜く描けるなんて、というか描こうとするなんて。やはり松居大悟さんの発想は異次元のそれです。

その後尾崎豊は、坂本龍馬を縛っていた鎖で「国」に繋がれた状態で過ごします。このシーン、借金取りの車に乗った彼女を追いかけるときに鎖を外さないのがミソ。彼は鎖をつけたまま外へと走り出します。繋がれていた柱の一部が欠けるんですね。

つまり彼は、「尾崎豊」として「国」に縛られたままなのです。坂本龍馬は鎖が外れて坂本龍馬以前の自分となり、ブラッド・ピットも「国」を抜け出す。ただ、尾崎豊は鎖に繋がれたまま彼女を追い続けて。

 

彼女を媒介とした関係構築

愛する女性のために、自分は何者かわかっていながら「自分は尾崎豊/ブラッド・ピット/坂本龍馬だ」と新たな、しかも強固なアイデンティティを形成する彼ら。一方彼女は、彼氏に愛されるために無我夢中で苦しい生活を送る中、自分が何をしているのか、自分は誰なのかわからなくなりそうだから「私の名前は……」と確かめる。いいですね。両方「愛する」立場でありながら、真逆。

ただ、彼らはアイデンティティを定めるプロセスに彼女を必要としているともいえます。「彼女が尾崎豊が好きだから、自分は尾崎豊」なわけです。ある意味「自分-自分」の関係構築に彼女が必要だからこそ、彼女を10年ストーキングしつつ具体的なアクションを起こさない自分たちを、「彼女を守っている」と表現している。

ストーカー3人の関係も歪ですよね。同じ女性を好きでいながら、喧嘩などは起こりません。この構図を見た時に思い出すのは、ルネ・ジラールの提唱した「欲望の三角形」に基づく、セジウィックホモソーシャル理論です。

ホモソーシャルと言えば、最近は「女性蔑視に基づいた男性同士の強固なつながり」という文脈で「ホモソ」と表現されがちです。

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ただ、今多用されている「ホモソ」を原義から整理すると、

  • 1人の女性に2人の男性が欲望の対象として眼差しを向ける
  • 2人の男性が絆で結びつく(=女性を媒介として、2人の男性が結びついている)
  • この2人は女性以上に互いのことを意識する

というプロセスがあるうえで、「自分たちを結び付けている女性=自分たちを断ち切りうる存在」という構造上生じている(とされている)女性嫌悪および「自分たちが同性愛者だと思われたくない」という同性愛嫌悪につながります。

私が言いたいのは、女性嫌悪や同性愛嫌悪の文脈で用いられる「ホモソ」ではなく、箇条書きにしたプロセスに代表される原義的な「ホモソーシャル」です。

だって、尾崎豊も、ブラッド・ピットも、坂本龍馬も、同じ女性を愛していながら、同じ部屋で過ごしているわけですよ。しかも交代交代でストーキング(「外回り」)して、成果物(彼女が捨てたゴミ)をシェアする。好きの女性を媒介とした、絆としか言いようのないもので、彼らは結び付いているのです。そう、物理的に鎖で「国」に繋がれるように。

しかも、彼女の髪を尾崎豊が貪るシーンでは、尾崎豊ブラッド・ピットがキス(口移し)をします。ですが、見ている借金取り(向井理)は何も言いません。ホモセクシュアルとも解釈しうるシーンを「男性」が「無視する」ことで、逆説的にホモソーシャルを演出しているんです。天才的と言うほかありません。

 

「恋は盲目」ではなく、そもそも人は盲目同然

 

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いいですね、松居大悟さんの作品は。彼が主宰を務める劇団ゴジゲンの作品に『君が君で君で君を君を君を』というものがあるのですが、あれは自分の愛する「人」が他の人には「ぬいぐるみ」に見えるっていう突拍子もない設定でした。

でも、『君が君で君だ』も『君が君で君で君を君を君を』も、考えてみれば根っこは一緒なんですよね。自分の愛している人が、他の人には人間に見えない。自分(たち)にとっての愛が、他者から見れば「異常」に見える。愛する「当事者」と「非当事者」には認識のずれが生じているわけです。もっとわかりやすく言えば、自分が誰かを愛しているとして、自分の愛を他者が完全に理解なんてできるわけない、と。

松居大悟さんの作品には、「他者理解の不可能性」を描くものが多いです。『君が君で君で君を君を君を』の前回公演にあたるゴジゲン第14回公演『くれなずめ』は、「自分たちだけ」なぜか死んだはずの親友が見える仲良しグループの成長譚でした。ちなみに、私が今まで見た中で一番好きな演劇作品は『くれなずめ』です。

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これも、「自分(たち)」と「他者」の認識のずれが描かれていますね。ゴジゲンではかなりストレートな視覚的アプローチで、「自分から見える光景」と「他者から見える光景」の違いを表現しています。

言ってしまえば、中高生の頃に誰もが一度は考えたことあるだろう、プチ哲学みたいなやつですね。ちょうど今手元にあったマー油を例にとりましょう。ということで手に取りますね。

 

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私にはこのマー油のビンのふたが赤く見えています。そして、あなたもきっとこれを見たら「赤いふた」と表現するでしょう。目の前にあるものは同じ、表現も同じ。しかし、私とあなたで見えているものが同じだと、誰が保証できるでしょうか。人は、他者の経験を自分のものにすることができないのです。絶対に。

松居大悟さんは、「他者理解の不可能性」を大いに悟っているからこそ、純度100%のファンタジーではなく「ありえないとわかっていながらもギリギリありそうな設定」で、どこまでも人に寄り添った、どこまでも残酷な物語を紡ぐのでしょう。現実にありえる範囲の設定で、結局相手の心なんてわかるわけないんだよ、と剥き出しの現実を突きつけてくるわけです。それは悲しく、虚しいけれど、どこか清々しくもあって。

どこまでも人に寄り添った、バッドエンドじゃないはずなのに虚しい、でも観終わった後悪い気分はしない物語。

そんな松居大悟さんの紡ぐ物語が、私は大好きです。