喪中、という概念を知ったのは小学生の頃。5年生、だったろうか。
塾、冬期講習。階段の踊り場でみんなに「明けましておめでと〜!」と無邪気に言ったとき、友人の申し訳なさそうな「おれ”モチュウ”なんだよね〜」の意味がわからなかった。知ったかぶって「へぇ〜」と言った後、家に帰って親に聞いた。”モチュウ”って何、と。
祝うことがタブーになるなんて知らなかったし、能天気な自分を恥じた。やけに深く反省した。あぁ、いけないことをしてしまったな、と。
なぜだろうか。”いけないこと”の初犯には、反省よりも、申し訳なさだったり罪悪感だったり、それこそ恥だったり、自分への眼差しが入り混じる。
喪中を知ってからだ。毎年誰か一人は、身近な人がお亡くなりになっているんだな、と気づくようになった。不思議なもので、人は新たな物差しを手に入れると、それで世界を測るようになる。冬至・夏至を知れば日が沈む時刻を気にするようになるし、4が縁起の悪い数字だと知れば、ホテルの部屋番号を意識する。
もし、喪中を知らなかったらどうなっていただろう。罪悪感なく、身内が亡くなった方に「明けましておめでとう」と言い続けていたのだろうか。だとして、喪中の概念を知らない人が、不幸のあった方に「明けましておめでとう」と言うことは、罪なのだろうか?
知った上で言うことと、知らずに言うこと。目に見える形としては同じだから、区別するべきではない、気もしている。しかし、無邪気さと残酷さはたしかに似て非なるものであり、前者は残酷の権化だ。
祝賀は、いつでも傲慢でずるい。普段許されないことも、祝いの席では許される。めでたい場だから無礼講、なんて。冷静に、どういうことだ。特権が過ぎる。
「新年明けましておめでとうございます」がワンセットになっていて、テレビでもお祝いムードが違和感なく受け入れられていて。喪中の方がいるとみんな知っていながら、マス・コミュニケーションでは「おめでとう」がデフォルトのものとされている。
「当てはまらない人がいるのはわかっているけれど、大勢に当てはまるから問題ないよね」という姿勢、怖いんだけどな。誰かを置き去りにすることが、”祝賀”だったら許されてしまうのだろうか。
喪中なんてものを知らなければこんなことを考えず、「Happy New Year〜〜〜〜〜 Fooooooooo!!!!!!」と叫びながら、シャンパンでスマホをビショビショにしていたかもしれないし、そっちの方が幸せだったかもしれない。
「明けましておめでとうございます」を手放しで言えなくなった僕は、毎年毎年、一本槍で。
「今年もよろしくお願いします」。