カテゴライズすることの暴力性は、たとえ良かれと思ってプラスのニュアンスで用いられることばであっても、変わりません。
1997年以降に生まれた世代を、「Z世代」と呼ぶ。とくにビジネスシーンで聞くことが増えてきた。
かくいう私も1998年生まれなので、ピチピチのZ世代なわけだが、「あ〜私ってZ世代!ミレニアル世代乙www」と思ったことは生まれてこのかた、一度もない。
さて、「Z世代」はサステナブルなものに興味があり、「ソーシャルグッドかどうか」を価値判断の軸として重要視している……なんて語られる。
Z世代として言わせてもらうが、オトナの勝手な「Z世代像」を押し付けないでほしい。
自分とは異なる存在を、カテゴライズすることによって人は安心する。
前回も同様の文を引用したが、あえて再び李琴峰氏の芥川賞受賞スピーチを引用する。
人間というのはいかに、他者をカテゴライズすることによって安心したがる生き物なのかということを、まざまざ見せつけられる形となりました。「あなたは○○だから、○○であるべきだ」「あの人は○○だ、道理で○○なわけだ」。彼らはそういう形で、本来であれば極めて複雑な思考を持つ人間を、極めて単純な属性と条件反射的な論理によって解釈しようとします。(生き延びるための奇跡 : 李琴峰 芥川賞受賞スピーチ全文掲載)
そゆこと。
価格やデザインとは別にソーシャルグッドかどうかが選択の基準になるとは言うが、サステナブルな商品は、今の日本では少々高すぎる。
国税庁によれば、日本人の平均年収は461万円。でもこのデータ、平均年齢が42.9歳。Z世代の平均年収はもっと低い(だろう)し、そもそも多くのZ世代は現在扶養に入っている。
にもかかわらず、「Z世代はこういったブランドが好きだろう」などと比較的高価なスモールブランドを紹介することには、一種の暴力性がある、と思う。
十分な収入を得ていない存在に対して、「彼らは”価格”よりも大事にしているものがある」と語りうるのだろうか。
まるで、ない袖を振れない現在の若者を牽制するかのように、「環境に配慮したものであれば多少高価であっても買うZ世代」の虚像、いや、ハリボテが設計され、そこにフィットするように自身を調整させるような。
その作為を最も感じたのが、この記事だ。
Z世代と呼ばれる若者は『消費』を少し違った視点で捉えていることです。彼らは『循環型/サーキュラー』というキーワードを重視しながら、強い意志を持って商品を選んでいるのです
とある一方、詳細を見てみると、
3人に1人は、パンデミック前よりもサステナブルなファッションの選択に関心を持っているという。その背景としては「お金を浪費したくない」と答えた人が60%、「環境汚染への懸念」が51%だった
実際は経済的合理性の方が重視されている現状があったり、
中古市場は2030年までにファストファッションよりも2倍以上大きくなると予想されており、倹約家の5人に2人が新品ではなく古着を購入したいという
では敢えて「倹約家」をサンプルにしているあたり、なんだか、ずるい。
昨今、「サステナブル疲れ」が話題になっているが、原因を考えてみてほしい。
本来生まれた年代を指すだけの概念だから、1997年以降に生まれた人は、問答無用で「Z世代」として括られる。にもかかわらず、その「Z世代」に年齢以外のキャラ設定を盛り込むのは、「多様性の時代」にふさわしくない蛮行ではないか。
ファストファッションが好きな人もいる。
ハイブランドが好きな人もいる。
もちろん、サステナブルなプロダクトが好きな人もいる。
しかし、「Z世代らしさ」を社会が求めるから、そこに自分を当てはめていく。いや、いかざるをえない。自分を偽るのだ、疲れないはずがない。
私自身、サステナブルなプロダクトが好きだが、ファストファッションだって好きだし、ハイブランドだってもらったら嬉しい。
自身が渦中にいるからこそ、思う。
少なくとも私は、どんな場面であろうと、「分類」の危うさには敏感でありたい。
そう思いながら、今日もSDGs MAGAZINEを読む。
大先輩の皆々様が「Z世代」の2年目社員に求めるものに、必死に食らいついていくために。