「鯛焼きひとつ、鯛抜きで」

クリープハイプとPublic Relationsが好きな、webライターの雑記

雨降る夜、私たちは止まる

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 自粛、粛々と自粛。

5/6まで、出社の予定がなくなった。

社用PCと保険証を受け取るために、明日だけは出社する必要があるのだが、それ以外はずっとテレワーク。workしている実感がわかないし、こうもe-learningでビジネスマナーをlearnし続ける毎日が続くと、大学5年生の自覚すら芽生えはじめる。

 

唯一の出社日が雨になるとは、つくづくツイていない。気が滅入ってしまう。雨の炎は鎮静作用があるから、気分も静まり返るのだろう。『家庭教師ヒットマンREBORN!』。

 

日本に住む私たちは、いや世界中の人々は、自宅で静かにウイルスをやり過ごそうとしている。自宅に篭る篭城戦、いうなれば篭家戦。牢屋にしか感じられないけれど。

かくいう私もまた、料理(買い込んだ食材を処理する、ともいう)ばかりしている。今週の「食費を酒代込みで2500円に抑えるプロジェクト」は、明日外で(褒められたものではないが)ラーメンを食べても成功する見立てだ。 もちろん断食しているわけではなく、きっちり食べている。今日も栄養満点のポトフをしっかりたっぷり満喫した。

 

……しかし、成功にウキウキしてもおかしくない私の心は——いや、ここは敢えて「私たち」と表現しよう——ゆっくりと病に冒されている。孤独という病とはよくいったもので、このままだと私は、ウイルスに蝕まれ病に冒されるよりも先に、心の幹が朽ち果て、死んでしまう気がする。"dying"って表現ほんとうまいですよね。

 

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しかも、「(おそらく孤独が原因では訪れないであろう)死」への漠然とした恐怖すらも、気を抜けば「気のせい」のようで気味が悪い。気を抜いたはずなのに気のせいになり気に味を感じるとは、不思議というほかない。

自室にこもってばかりいる中で、感情の動きがゆっくりと止まっていくのを感じる。「好き」だとか「嫌い」だとか、たしかに動いていたはずの、ある種原始的ともいえる自分の想いが、少しずつ。怖い。

もしこれを絶望と呼ぶのなら、やはり絶望は死に至る病である。キルケゴール、流石。もちろん意味合いは全然違うし、孤独以前に単独者になる必要があるわけで。

 

 

私は、どうだろう。

気を抜いて、この「過ごせそうな気」は、抜け落ちてしまわないだろうか。気に病んでいる時点で、気を失っていないことだけは保証できる。

 

今日も隣人は爆音でアニメを見ているし、大笑いしているし、歌っている。

 

目黒では、雨が降っている。 

 

花園に居慣れる者はその香りを知らないと云はれる。余りに見慣れてゐるが故に、とりわけ見ようとはしないのである。習性に沈む時反省は失せる。まして感激は消えるであらう。それ等のものに潜む美が認識されるまでに、今日までの長い月日がかかつた。私達は強ちそれを咎めることは出来ぬ。なぜなら、今までは離れてそれ等のものを省みる時期ではなく、まだそれ等のものを産み、その中に生きつつあつたからである。認識はいつも時代の間隔を求める。歴史は追憶であり、批判は回顧である。(『雑器の美』柳宗悦