ディベート同好会の思い出
私は、運動部ではなかった。御察しの通り。
ディベート部(正確に言えばディベート同好会)の部長と文芸部の副部長、二足のわらじを履いた、ゴリゴリの文化部だった。会社員とwebライター、パラレルキャリアの道を歩む今、この頃から二足のわらじだったのかよ、と気づきニヤリとしてしまったのはまた別の話。
有名無実化した部活として目標なくのんべんだらりと過ごす……わけではなく、一応競技ディベートにも「ディベート甲子園」なる大会がある。
全国のディベート関係者は、この大会で優勝するために日々練習を重ねる。ディベート甲子園の論題が発表されたら、まずいくつかの議論を想定し、立論を組む。裏付けるデータ・反論に使える資料をそれなりに集めたら、春大会。他校と練習試合を行い、そこでの議論を記録したフローシートや録音データを文字に起こしたものを参考に、対策を練る。必要があれば図書館やCiNiiを用いて資料を集め……と泥臭い作業をするわけだ。キラキラした青春から程遠かったことは、想像に難くないだろう。
競技ディベートは、基本的に4人1組だ。役割(ポジションみたいなものだ)としては、
- 立論:自分たちの主張をする
- 質疑:相手の意見に質問をする
- 第一反駁:相手の意見に反論する
- 第二反駁:議論を整理し、自分たちの主張こそが正しいと伝える
がおり、各自の役割をターン制で進めていく。
イメージも湧きづらいだろうし、自分たちが出場した年の、全国大会決勝戦の動画があったので載せてみた。もちろん決勝の舞台には立てていない。「もちろん」なんて言えることが悲しいのだが。
好き好んで「日本政府は外国人労働者の受け入れを拡大すべきである」の賛否を論じるなんて、今の自分にはできない。あの頃の私は、確かに「青春を捧げていた」。
方向は必然に一の目的を所有する。そしてこの目的なるものは、人の生活に於ては、手近なものから最終のものに至るまで、無数に存在し得る。云わばその目的は、一定の方向の――無限の距離まで延びている一定の方向の、所々に散在する標石の如きものである。今日の目的があり、明日の目的がある。そして最終のものは、所謂理想である。理想は如何に高くても遠くても構わない。到達出来ないものであっても構わない。ただその理想に至るまでの、無限の道程を連結すべき標石が、所々に散在しておればよい。
斯くて、動かすべからざる一定の方向があり、その無限の距離の終端に理想の高塔が聳え、それに至るまでの間処々に、大小幾多の標石が立っている、そういう生活こそ、本当にしっかりした力強い輝しい生活である。(『生活について』豊島与志雄)
自分の生を愛する気持から来る、自由な真摯な意志は、人に不撓な勇気を与えると共に、無謀笨粗な猪勇を排し去る。そういう意志を以て進む者は、常に輝かしい心と健かな希望とを失わない。そして剛毅な冒険をなすことはあ 自分の意志に依らない方向を、もしくは自分の意志に反した方向を、漠然と又は余儀なく辿る生活には、力と光とが決して生じない。そういう生活には責任感が存しない。時々の些少な責任感はあっても、自分の一生に自分が責任を持つというような、生活の礎となるべき責任感は存しない。そういう大なる責任感のない所には、本当の努力は生じない。本当の努力のない所には、力や光は生じない。
生活の方向を決定するのに、自分の意志が加わっておればおるほど、その度合に正比例して、生活は本当の意味で自分のものとなり、力強い輝かしいものとなる。
余儀なく駆けさせられる馬車馬で、吾々はありたくない。自分の意志によって山野を駆け廻る奔馬で、吾々はありたい。っても、捨鉢な暴挙に己を投げ出すことはない。(『生活について』豊島与志雄)
記憶の美しさと濃さの反比例
ディベート同好会に私たちの学年は2人しかいなかった。私を含めて。あるときは1人2役になったり、あるときは後輩の力を借りながら、どうにかこうにかチームとしての体裁を保っていた。壊滅寸前だったが、それなりに楽しかった。
部長になったのも、なりたくてなったわけではなかった。一緒に仮入部した友人が辞めてしまい、先輩から「君は辞めないよね?」と圧力をかけられて在籍するうちに、ただ1人の部員兼部長になってしまっただけだ。その後同級生が3人入り、2人辞め、結果として2人体制が確立してしまった。余談だが、仮入部の段階で辞めてしまった友人は文芸部の部長となった。結局同じ部活のメンバーになった彼とは、今もwebライターの同僚として仲良くやっている。運命というやつは、本当にいたずらっ子だ。
曲がりなりにもディベート甲子園での優勝を目指し、練習を重ねていた私たち。週2回の活動以外にもちょこちょこ集まりはしていたが、夏休みには準備も大詰め。
しかし、キラキラと同様真面目さとも13km(神槍と同じ)くらい距離とっていた私は、プレパ(ディベート用語らしいが、要するにprepair。資料を用意して立論を組み、実際に議論して修正を繰り返す作業)のためにちょこちょこ登校した夏休み、相方・後輩数人と、近くのスポーツセンターで下手くそな卓球とバスケをした。
高校2年生の夏、引退の年。
1学期の最終日にワックスをかけた学校の床は、変に甘い匂いがした。
炎天下、通学路で聴いていたロックはやけにギターがジャカジャカしていた。
休憩時間に学校を抜け出して食べたフードコートの中華は、バカみたいに熱々だった。
でも、今となっては、あのワックスの匂いも、あのロックも、あの中華も、世界一のそれ、に思える。そんなわけないのに。世界一どころか、日本一にすらなれなかった試合のために過ごした夏。嗅覚、聴覚、味覚全ての世界一を味わっていた。のかもしれない。「今思えば」。
あのやけに眩しく、皮膚をジュウジュウ焼きつける夏の日差しが、世界一美しい陽の光に思える日も、いつか来るのだろう。きっと。
今年も、1日、また1日と、夏は近づいているのに、一向に暖かくなる気配はない。
あの夏から、私は毎日毎日、毎年毎年、遠ざかる。
思い出そうとすれば記憶は鮮明に蘇ってくるのに、ふとしたとき、記憶にもやがかかっているような気がして。でも、霞んでいく中で、美しさだけは増して。
手に入らないものはいつだって何だって美しい。手から遠ければ遠いほど。
準々決勝で負けて、いっちょまえに涙を流した夏。
あの頃の僕が今の僕を見たら、笑うだろうか。憐れむだろうか。罵るだろうか。
夏はまだまだ遠い。
P.S.思い出の中華屋は潰れたらしいです。
夜明けは 刃のように
白く光りながら滑り込んで来る
こまかくふるえる夜の磁界が裂かれ
網膜からすばやく切りぬかれてしまう
遠い祭日のあざやかな映像
そのかすかな傷のうずきに追われ
暗い汗の汀に浮かび上るまぶらを
朝の光がつめたくたたき
世界はふたたびぼくらを監禁する
(『まぶしい朝』渡辺武信)
実際、自分の生も自分の死も、共に自分のものではないか。それを自分の掌中に握り得ないのは、握り得ない人が悪いのである。罪は生や死にあるのではなくて、人にある。何物にも動じない力強い輝かしい心を以て、生をも死をも受け容れ得る人こそ、本当に何かを仕出来し得る。そういう所に生と死との意義があり、そういう所に生きることの喜びがある。
生きることの喜びを、吾々は自分のものとしたい。(『生活について』豊島与志雄)