幸せの定義
『幸せの定義』って映画ありそうだよな〜と思って検索してみたが、全然なかった。あらやだ。2000年前後のロマンス映画でありそうだったのに。
幸せとはなんだろうか。ここにきて不思議に思う。
先日沖縄慰霊の日に際して、小学6年生の山内さんが幸せについて語っていた。
生きる上での幸福について「お金持ちになることや 有名になることが幸せではない」「家族と友達と笑い合える毎日こそが 本当の幸せだ」「未来に夢を持つことこそが 最高の幸せだ」と語った。(沖縄慰霊の日、いまを生きる小学生が問いかけた幸せの意味。「お金持ちになることや 有名になることが幸せではない」 | ハフポスト)
共感する人が多いのだろうか、これ。
私は正直、全人類に共通する幸せなどないのだな、と改めて感じてしまった。確かに家族や友達と笑い合いたい。しかし、金があることで誰かを笑顔にできるかもしれない。金がないことで、誰かが笑顔を失うかもしれない。銭ゲバである私は、お金持ち=幸せではないだろうが、お金持ちは幸せにそこそこ直結するぞ〜と思った次第。
とはいえ、『星のカービィ 鏡の大迷宮』のクリア度を100%にすることが幸せだと盲信する小学生時代を過ごした私にとって、小学生である山内さんが先ほどの内容を語った事実に舌を巻く。すごい。尊敬というほかない。
給料泥棒が小学生に伝えていたこと
お天道様に顔向け出来ない生活を送っている私だが、これでも教育者(笑)だ。アルバイトで塾講師。生徒たちにとっては、アルバイトだろうが社員だろうが1人の「先生」。そう見られていることがわかっていたからこそ、最低限の礼節は重んじていたし、教育に携わっている自負を持つようにしていた。もちろん、「教育界に革命を!」なんて殊勝な想いがあったわけではなく、金が欲しかっただけだ。時給2600円だもの。
給料泥棒の私が、小学生に必ず伝えていたことがある。
「あなたの考えを持ってください」。
なに先輩風吹かせとんねん。イキるな。
……って言いたいと思うが、これは私が小学生の頃に聞いておきたかった言葉。だから欠かさず伝えるようにしていた。
都立入試対策がメインの塾であるため、自分の意見が求められる作文問題が非常に多く、自然な文脈(かつ塾として、受験指導から逸脱しない範囲)でこのメッセージを伝えることができていたが、事実は事実として学んだうえで自分の考えを持たなければ、勉強なんて意味がないと思っている。歴史における出来事や統計データなんてググれば出てくるし(もちろん恣意的に改ざんされた資料も世の中には存在するが、今言いたいのはそういうことではない)、データベースになりたいならAIに頑張って勝てよって話。そんなの厳しすぎる。だから、材料を調理する能力をつけてほしいな、と。
たとえば、日本の少子高齢化について学ぶ。しかしそこで「少子高齢化!問題ですね〜」ではなく、「人口が減ることって何がダメなの?本当に"悪い"こと?」と問いかけるだけで全然違ったし、作文課題でも型にとらわれない伸び伸びした意見を書いてくれるようになった。
人間、善悪やら幸不幸を自明としすぎているフシがある。くわえて、それは幼少期に刷り込まれた価値観がかなり影響しているのかな、と。柔らかい頭を押し固めるのではなく、伸ばし拡げてほしい。
自分がきちんと物事に向き合い考え抜いた経験がない人間は、考える苦しさを知らない。だからこそ、相手の考えと自分の考えが違ったらろくに聞かず否定する。
でも、考えることの苦労を知っている人間は、相手をやみくもに否定したりしない。相手のロジックを受容した上で、対応するように意見を展開できる。だから、多様性が求められるこれからの時代を生きる生徒たちには、「考える」経験を(塾として、あくまで受験に関わる範囲で)積んでほしいな〜〜〜〜〜〜〜と信念を偉そうに持ちながら、私は塾講師を3年やり抜いた。就職活動終わったら、また戻りたいなぁ。