「鯛焼きひとつ、鯛抜きで」

クリープハイプとPublic Relationsが好きな、webライターの雑記

「ラジオの」魅力を無視して「深夜ラジオの」魅力を語る危険性

 

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「ラジオ好きなんて珍しいね、何がいいの?」

中学1年生の頃、YouTubeクリープハイプの『ウワノソラ』を聞いて稲妻に打たれた思いをして以来、クリープハイプのファンは10年続けている。バナナマンバナナムーンGOLDを聴き腹を抱えて笑って以来、深夜ラジオは8年聴き続けている。

でもこれらは、続けようと思って続けているわけではない。摂取しなければ生きられない体になってしまった、ただそれだけ。

www.tbsradio.jp

とくに、ラジオは不可欠だ。

「週に必ず12時間は聴く」くらいじゃ本当のラジオ好きに怒られるかもしれないが、生憎これくらいしか趣味がないので許して欲しい。

「趣味?強いて言うなら、ラジオ聴くことかなぁ」

「なんでラジオなんて聴いているの?」

「うーん、なんとなく?笑」

慣れすぎた、このやりとり。

しかし、何度も訊かれるうちに「なんとなく」は「たしかに、どうしてラジオが好きなんだろう」に変わる。そして、私なりに答えが出た。

 

個人の想像に委ねられている部分がごく一部だからこそ、深く深く、その一部に思いを馳せることができる。これが、ラジオを愛してやまない理由。

例えば、小説。小説は、「文字」だけ与えられている。登場人物の声や外見、風景は文字で表現されているものの、細部は当然読者一人一人の想像に委ねられている。ゆえに人々は、与えられた文字情報を自分ように最適化する形で、脳内で豊かな想像を存分に膨らませる。自由な営みを可能とするところが、小説の魅力だろう。言うなれば、料理の材料だけが目の前にあり、どんな料理になるのかを自由に考えるような自由度がある。

テレビは、小説とは対照的だ。もちろんカットされている部分も多いだろうが、提供されるものは視覚情報・音声がたっぷり詰まっている。「次の展開」は想像するかもしれないが、目の前のものを自分のイメージに沿うように加工することは難しい。だが、逆に言えば目の前のものを、ありのまま楽しめる。目の前にある、「あとは食べるだけ」の料理を存分に楽しむことに似ている。

ではラジオはどうかといえば、音声を介して誰が何をしているか・その場で起きていること・空気感が伝わってくる一方、肝心の「現場」は想像するほかない。目の前に仕上げだけされていない料理があり、最後になんの調味料をかければ一番美味しいのか想像する営みだ。わかりやすい例をいくつかあげよう。

 

三四郎のANN ジングル

www.allnightnippon.com

こちら、わかりやすい2パターンが存在する。1つは、「ねえねえ、これ知ってる?」「〇〇?」「違うよ!」というものだ。これは、毎回〇〇が変わるのだが、結局何を見せているかわからないところに妙がある。「どうしてこんな疑問が浮かんだのか」「というか何を見せたんだ」と想像し、そこから「いやなんでそう間違えるんだよ、といったところまで想像する。もう1つは、「あなたは本当のファイティングポーズを知っていますか?」「シュッシュッ、シュッシュッ」というもの。相田のマジトーンボイスから、彼が真剣に言っていること(という設定)が伝わってくる一方、小宮さんがどんな「本当のファイティングポーズ」をとっているのか、肝心な部分だけは想像するしかない。

 

オードリーのANN チェ・ひろしのコーナー

www.allnightnippon.com

その時流行っている(もしくはちょっとピークが過ぎた)ものをもじった企画を、番組の構成作家チェ・ひろしが作成。その企画書を若林が読み上げた後にやってみるコーナー。これは実際にあったものを紹介した方が早い。ちなみに春日はこのコーナーで99%全裸になる。

 

〜タイトル(コーナー名)コール〜

若林「そういえば今年新作公開されます、ペニスターウォーズ

春日「なんじゃそりゃ」

若林「春日さんが全裸になり、悪の帝王チンポ・ベイダーになります」

春日「雑だな」

若林「チンポ・ベイダーがチンポセイバーを構えます」

若林「若林さんがチンポセイバーをハリセンで叩き落とそうとしてきますが、20秒間床に落とさなければチンポ・ベイダーの優勝です。チンポ・ベイダーが敗北したら背中に張り手です」

そして、春日にメリットは一切ないはずなのに、何故か結局やる流れになってしまうのだ。これは、当然見ることができない。だが、思い描くのだ。2人は今どんな状態で、ブースでどんなことが繰り広げられているのか。春日の悲鳴や若林の笑い声、声の遠さから、想像するのだ。

春日のイチモツは、amazonオリジナル番組『ドキュメンタル』にてモザイクをかけられて大活躍するのだが、あれは先ほど述べたように、モノ自体の面白さである。状況を推測して楽しむ、とは異なる。

といった具合。

あと、「ながら」で楽しめるのもラジオの魅力だろう。聴覚しか使わないから、何かの作業や別の娯楽とともに楽しみやすい。娯楽が多様化する現代だからこその魅力ではなかろうか。

 

ラジオの「可能性」をラジオファンが狭めてどうする

なんでこんな話を突然したか。岡村隆史のANNで、彼が「3カ月の間、集中的にかわいい子がパッと働き、パッと辞めます。今、我慢しましょう。この3カ月のために頑張りましょう」と発言して、炎上した。むろん、彼の発言や価値観、顕在化した社会構造上の不均衡など、論点は数多く存在する。だが、深夜ラジオファンとして見逃せない議論がある。

彼個人への批判とは別の文脈。

深夜ラジオのコンプライアンスを疑問視する声。

news.biglobe.ne.jp

この問題に対して、深夜ラジオを擁護する立場の人が、「深夜なんだから問題発言・悪口があってもいいじゃないか、俺たちの場所を奪うな」という意見を出している。

だが、一度考えて欲しい。

問題発言およびそれがまかり通る土壌が問題だ、と言う人に、「ここは問題ない」といくら言ったところで水掛け論だ。加えて、「深夜ラジオ=なんでも自由に言える空間」と言い「過激"だから"面白い」とすると、逆説的に深夜ラジオの面白さは過激さ・倫理観の揺らぎだけだ、と説明することになってしまう。

もちろん、その意見自体を否定するつもりはない。人には人の考え方があって当然だから。しかし、「ラジオ」という娯楽の魅力についてはもう一度考えて欲しい。先に挙げたように、ラジオというコミュニケーションだからこその楽しみが存在するじゃないか。別に、賛成してくれとは言わない。しかし、「誰かを傷つけるスリルで人を楽しませるもの=深夜ラジオ」と位置付け、ファン自ら無自覚に深夜ラジオを貶めるなんて悲しいことはやめてくれ。自分の好きなものを、自分の論理展開で破壊してどうするんだ。

なんて悔しさを語ったところで、果たしてどれくらいの人に届くのでしょうか。

以上、ラジオファンとしての想いでした