「鯛焼きひとつ、鯛抜きで」

クリープハイプとPublic Relationsが好きな、webライターの雑記

定義しないことが救いだと信じて

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書を捨てよ、町へ出よう。

書を捨てる勇気も、町へ出る勇気もない私は、どうすればいいのか。ラッキーストライクを吸いながら、私は今日も雨音を聴く。

ところで、幸せとはなんだろうか。幸せになりたい人間は、幸せを定義してしまうとそこから逸脱した時に自身が幸せでないという現実に直面してしまうから、敢えて幸せを定義しないのだ。なんて持論があるのだが、おそらくその持論はこれから30年くらいは機能しない気がするので、そろそろ捨てようと思う。書は懐に抱えたまま。

 

幸せ:一【仕合せ】運命のめぐり合せ。「有難き−」二【幸(せ)】〔その人にとって〕幸運(幸福)であること。また、その状態だ。「−をつかむ」表記:例外=「幸せ」。二は、「〈僥」とも書く。

こううん【幸運】物事が偶然に自分にとって都合のいいように運ぶこと(様子)。しあわせ。「−に恵まれる/−にも入賞した」↔︎不運 表記:「好運」とも書く。−じ【−児】めぐりあわせが良くて快挙などをなしとげることが出来た人。

 

以上、新明解からの引用でした。どうも、運命に好かれた人間の特権こそが幸せのようで。ああ、定義にも逃げ道があるようですね。自分が幸運か不運かなんて、断定できないですもの。

もしかしたら、辞書の編者も弱い人間なのかもしれないですね。

遠い人間に親近感を抱きながら、私は今日も眠りにつきます。

いつか幸せになりたい、なんて輪郭の定まらない願望に囚われながら、おやすみなさい。