「鯛焼きひとつ、鯛抜きで」

クリープハイプとPublic Relationsが好きな、webライターの雑記

生きる「意味」を求めないでくれ

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昨日、久しぶりにお風呂に入った。

これだけ言うと凄く不潔な感じがするが、安心してください、浴びてますよ(シャワーを)。自宅でゆっくり湯船に浸かったのが久しぶりですよ、という話。安村さんって何してるんだろう。まだとにかく明るいのかな。

 

湯船にお湯を張り、お気に入りのバスソルトをぶちまける。フローラルフルーティーの香り、らしいが、何のフルーツの香りかわからないし、そもそもフローラルって何を以て「フローラル」と名乗れるのかもイマイチわかっていない。でも、言われてみれば確かにフローラルフルーティーだった。プラシーボ的なアレかもしれないけれど。

お風呂に入ると、指先まで血が巡っていく感覚がある。「あー、今生きてるわ、自分」なんて生の実感が肌から染み込んでくるような。最近手の震えが酷く、アルコール依存症なのかな?と不安になっていたが、今のところは大丈夫、だと信じながら毎日じゃぶじゃぶ飲んだくれている。肝臓をアルコールで丸洗い。湯船の中だと手は震えないので、水圧さまさまである。

 

 

今日の昼は、同居人が作ってくれたカレーを食べた。

人生で2回目の自炊、と言っていたが、それはそれは美味しいカレーだった。同居人およびヱスビー食品への信頼度が高まった。

 

冷凍のカキフライが余っていたので、それも揚げた。カレーのトッピングとしては贅沢過ぎるかも、と思ったが、案の定美味しい。お店で1420円(税込)くらい出してもいい美味しさ。

何歳になってもカレーはテンションが上がる。喜びが色褪せない。給食にカレーが出る日は3時間目からソワソワしたし、夕食にカレーが出る日はスキップで家に帰った。一人暮らしをしていた頃、カレーを作る日はちょっといいビールを買って帰った。

 

 

今日の夕方は、ゲームをした。

大乱闘スマッシュブラザーズ任天堂を支える屋台骨と言っても過言ではないタイトル。登場するキャラクターも往年のスターが勢ぞろいしているので、大黒柱の維管束状態だ。

 

そんなゲームを、スターでも何でもない、しがないWebライターが楽しめるわけだ。握手券付きのCDもいらなければ選挙権もいらない、スターとのオープンな密会。ゲームという発明の偉大さには頭が上がらない。

 

 

この2日間、たしかに私は生きていた。生きているなぁ、と実感があった。

 

では、視点を変えて。私がこの2日間生きていた「意味」は何だろう。

そう、私はこの土日、ほとんど何も生み出していない。生産性ゼロ。もし生きていることに外的な「意味」を求められるなら、私は死んでいたも同然になる。

この2日間は、仕事に殺されそうになっていた日々よりも確実に、生きている手応えがあったのに。

※念の為補足しておくと、私は仕事が大好きで、自分がその場にいていいという保証をしてくれるモノだと思っている。しかし、この「保証がなければその場にいてはいけない」にも転じうる精神構造自体が褒められたモノでないとも承知している。

 

生に「意味」やら「役割」を見出すことを無条件に善とするのは、どうにも残酷で、恐ろしい。〇〇するために生きる、大いに結構。しかし、〇〇しなくても、生きちゃっていることもまた事実。

生きる「意味」なんて、別にないのですよ、と開き直って"今"を享受するのもいいんじゃないかな、とようやく思い始めた今日この頃。こちとら生まれちゃってるし、生きちゃってるんだから。

 

以上、五月病闘病記をお送りしました。

 

〈歌いだす〉ことは、狂気にひとしいとさえ予感される。それは空っぽの卵をおしつぶし意識のむこうへととびこんでしまうこと、今日のうちに明日のなかでおどってしまうことのようにおもわれる。ぼくらの意識は、〈空白〉を包囲し、そこに密集しひしめきやがてひとつのかたい殻に変ってゆく。あえてそれをおしつぶし、瞬間の空気の振動ののち狂気のなかに解きはなたれている自分を見いだすことを、おそれるべき理由はなにもないか。死者の空白のなかで、歌ってしまうべきか。

しかし、いまはただその問いのみを凝視しつづける。意識を意識しつくすその果ての放心のなかに、空っぽの卵はありありと浮かびあがってくる。

(『六月のオブセッション』菅谷規矩雄)