「鯛焼きひとつ、鯛抜きで」

クリープハイプとPublic Relationsが好きな、webライターの雑記

他人に興味のないぼくの、気持ちに関する一考察

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自分の感情をしっかりと見つめていると、恐ろしくなって、数分もしないうちに私は目をそらしてしまいます。

例えば、「自分は人を好きになったことがあるのか」と問うてみると、「はい」と言える。断言できます。

一方、「自分から人を好きになったことがあるのか」になると、テーブルの上のコーヒーを飲み干すことしかできません。

 

 

私は多分、本質的に他人に興味がありません。独り身になってよくわかりました。

寒くなってきたから、人肌が恋しくなる。その感情はわかるのですが、いざパートナーが必要かと訊かれると、「うーん」と唸るだけ。煙草・酒・コーヒーがあれば生きていけますからね(これらの頭文字をとるとTACですが、資格を得るどころかむしろ人間としての資格を失うだけな気がします)。

他人に興味がないからこそ他人に興味を持とう、好意を示そう、と心がけるうちに、自分が相手に抱く感情は「湧き上がった」ものなのか、「組み上げた」ものなのか、わからなくなってしまったんだなぁ、などと己を小馬鹿にする日々を送っています。

 

他人に興味がないからといって、自分に興味があるのか?好きなのか?と考えてみると、それはそれで違う気もします。

でも、自分の気持ちに向き合うという行為を選択している時点で、自分のことがたいそう好きなのかもしれません。

ブログだって、Twitterだって、己を見せたい人間しかやらないでしょう。自己開示欲求だって、「私は相手を安心させるために己をさらけ出しているのだ」と言い聞かせ(免罪符を目に焼き付け)ておりますが、結局自分を認めてもらいたいだけでしょう。

あぁ、自分が承認欲求マシマシだから、他人のことも承認しようと思えるのかもしれませんね。

……とは言わせねぇよ、と。我が家の杉山システムですね。承認することで、相手からの承認を得たいのでしょう。

 

こんなに証拠が揃っていながら、どうして私は「自分が好き」と言いたくないのでしょう?

 

きっと、心に根を張っているのは、ナルシシストな自分を認めたくないというナルシシズム

ちっぽけなプライドです。尊大な羞恥心と臆病な自尊心とはよく言ったもので、文学作品は偉大だなぁと思ってしまいます。

 

読書の秋ということで、最近読んだ面白い文章の一部を引用して終わりますね。

 

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自分らしい感性を離れては、はや文学もヘチマもあるまい。自分の好きな作品を愛読するでもなく、これも読んどく必要がある式の勉強は、尠くも創造的な雰囲気を齎すものではないのである。
 斯く云ひ来れば、甚だ分り切つたことを云つてゐるに過ぎないとも見えるが、斯く云はれるに該当する実情を思ひ合せられれば、分り切つたことばかりと云去れもしまい。
 ――君の好きなものは何か。云へないか。では、君の現に必要としてゐるものは何か。云へないか。では一と先づ寝給へ。ぐつすりと寝給へ。やがて、目の覚めた時、聞く物音は新鮮であらう。其処に、創造の因子がある。(『よもやまの話』中原中也

 

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 力なきものは自ら萎む。漸くにして彼等も倦怠を覚えてゐる。――然らば如何にすべきか?――彼等は迷つてゐる。そして世界中が迷つてゐる。やがてその中から低い声が一つした。観念論に行けと。――その声にともかくも好感を懐いた人達の或者は、感傷的な道徳家となり、他の或者は批評主義派になつてしまつた。
 それ等さへまた倦怠に入りつゝある昨今、芸術界が経済学だの歴史だのといふことを気にしはじめてゐることは、随分ありさうなことで、そして同情さるべき事情である。
 この情態が面白からぬことを気付く頃に現れる次の現象は、凡そ私に分る所を以てすれば、心理的に病弊を究明しはじめることであらう。
 然し、それら後から後から案出される※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)きの種々は、結局失敗に終るだらう。
 これらの失敗の原因が何であるか、それを確言することは困難であるが、辛じて私に言へることは、世界が忘念の善性を失つたといふこと、つまり快活の徳を忘れたといふことである。換言すれば、世界は行為を滅却したのだ。認識が、批評が熾んになつたために、人は知らぬ間に行為を規定することばかりをしだしたのだ。――考へなければならぬ、だが考へられたことは忘れなければならぬ。
 直覚と、行為とが世界を新しくする。そしてそれは、希望と嘆息の間を上下する魂の或る能力、その能力にのみ関つてゐる。
 認識ではない、認識し得る能力が問題なんだ。その能力を拡充するものは希望なんだ。
 希望しよう、係累を軽んじよう、寧ろ一切を棄てよう! 愚痴つぽい観察が不可ないんだ。
 規定慾――潔癖が不可ないんだ。
 行へよ! その中に全てがある。その中に芸術上の諸形式を超えて、生命の叫びを歌ふ能力がある。
 多分、バッハ頃から段々人類は大脳ばかりをでかくしだしたのだ。その偏倚は、今や極点に達してゐる。それを心臓の方へ導かうとする、つまりより流動的にしようとして、十九世紀末葉は「暗示」といふ言葉を新しく発見したのだつたが、それはやがて皮膚感覚ばかりの、現に見る文明と堕してしまつた。
 今や世界は目的がない。そして目的がない時に来る当然のことゝとして、心そのものよりも、その心が如何見られるかといふことに念を置いて生きてる者等ばかりとなつた。人々は皆卑屈になつてもう卑屈が卑屈とみえないで、寧ろ思慮あることのやうに考へられるといふふうにまでなつてゐる。尤も現在の我が国では、その卑屈を思慮あることのやうに考へる人さへ、僅少なのであつて、他の人達は考へるといふことそのことをだにしないのである。それでゐてその人達が物を言ふ。何を言ふかといふと形容詞的な余りに形容詞的なことか、それとも学問的な余りに学問的なことなのである。而もそれらを極めて不誠実に、生活的意義から全く離れて。又、偶々生活的意義といふ言葉を気付いた人がゐると、その人は生活のことを生活的意義を離れて話してゐたりするのである。
 総じて陰気くさくつて而もバラ/\だ。悪賢い小商人がいちばん活々して生きてゐるといふ有様だ。(『生と歌』中原中也

 

もうすぐ11月ですね。お鍋食べたいな。さむさむ。