キレる前に、切る
大正漢方胃腸薬みたいですね。
いまから、美味しいけど見栄えがそんなによくない料理をします。
椎茸の肉詰め
先に椎茸の肉詰めから。
好きな分だけ椎茸の軸を取る。今回は3つ。
ひき肉目分量に塩・料理酒・麻辣醤を目分量投入。多分、ひき肉60g・塩ふたつまみ・料理酒小さじ1杯・麻辣醤小さじ1/2杯くらい。
椎茸の裏に好きなだけひき肉をぺたぺたくっつける。多分、20gくらいずつ。
フライパンにごま油を目分量引いて弱火で熱し、ひき肉の面を下にして椎茸を投入。すぐ蓋を閉める。
良さげなタイミングで裏返す。
ふっくらしていた椎茸がへにょっとしたくらいで蓋を開け、水ちょろっと投入、すぐ蓋を閉めて蒸す。
気が済んだら完成です。食べる時はわさびマヨでいただきます。今夜のおつまみ。
ガパオライス
さっきの椎茸の軸・ピーマン・にんじんを好きなだけ刻む。ピーマンは2つ、にんじんは1/2本。
フライパンに油を引き、チューブ生姜を目分量入れて弱火で熱する。多分、3cm分くらい。
生姜がじゅわじゅわ音を立て始めたら、ひき肉を目分量で投入。多分、60gくらい。
フライパンに料理酒を目分量で投入。多分、大さじ1杯くらい。
刻んだピーマンとにんじんを投入。
塩・砂糖・オイスターソース・麻辣醤・玉ねぎドレッシングを目分量で投入。多分、塩少々・砂糖とオイスターソースは小さじ1杯・麻辣醤は小さじ1/2杯・玉ねぎドレッシングは大さじ1杯くらい。
炊いた米に添える。欲張りさんは目玉焼きも載せる。
完成。きたねえ。これをガパオライスと呼んでいいのかはわかりませんが、名乗るだけなら自由です。
ストレスが溜まった時、私は必ず料理をします。ざくざくと物を切ることができる、洗い物をガッチャンガッチャンやればスッキリする、手が冷えれば頭も冷える。
同世代の7人に2人が読んだであろう絶妙な名作『SKET DANCE』では、生徒会のデイジーがゴーヤを切っていましたね。切った時の感触が云々。やっぱり切る行為はストレス解消になります。最近、料理してばっかり。
ご飯を食べ終わったあと、換気扇を強に設定。換気扇の真下で一服することで、精神の安寧を保っています。いつもの精神安定剤は、今朝届きました。
ビルが建つ
風立ちぬ、みたいなね。
引っ越してから、1ヶ月が経ちました。
今ベランダの前ではビルの建設工事が行われています。ガガガガガガ。ガガガSPって感じですね。杭を打つ音が、ドアをノックする音に似ていて焦ります。「いや工事の音なのはわかってるよ?でも万が一ノックだったら……」とベッドから這いずり出て、覗き穴を覗くと誰もいない。こんなムーブを1日4回朝昼夕夕とやっています。
不動産会社には引っ越す前「近くで工事があるから音だけうるさいかも」と言われており、その点は承知していたのですが、いざ工事が始まってみたらあらびっくり。ベランダの真正面にて、そこそこ高いビルの骨組みが、すくすくと健やかに育っております。おかげで自宅ではUV99%カット。というか日光99%カット。焼けたくない方は是非我が家へお越し下さい。
物干し竿を買うか買わないか悩みながら行動に起こさないまま、「物干し竿を」かけるはずの場所に「洗濯物を」かける生活を送っていたら、そもそも陽が当たらなくなってしまいました。
ここで私は、流石に話が違うよおばあちゃん、とダメ元で大家に一筆したためることに。するとびっくり、家賃が1000円だけ下がりました。僅かにも思えますが、1年にすると12000円ですから侮れません。行動はしてみるもんですね。
こんな一人暮らしをしていると、社会に出たことは実感できないくせに、学生に戻れないことは痛感する。なんででしょう。
※ちなみに、実感と痛感は類語だそうですが、ニュアンスの違い、感じ取ってください。
コロナゆえの暇、言い換えれば「自由」のせいでしょう。自由であるがゆえに、ふと気が緩んだときに「何もない」ことを実感する。喪失感、がしっくりきます。今年の就活生は、のちのち「失われた世代(ロストジェネレーション)の再来」などと言われそうですが、この就活を乗り越えた後輩たちに、今こうして空虚な日々を過ごす私は勝てるのでしょうか、ね。
自由のこの静けさの故に、それを享受する吾々の心の中に、ほっとした休息の瞬間、思惟をやめておのずから眼を伏せる瞬間、なにか喪に似た寂寥が浮びあがってくるのである。(『或る日の対話』豊島与志雄)
国家を無視して、個人から民族から人類へと眼を走せ、人間の新世紀を想見する時、そこに於いて、顧みて自己の孤立が感ぜられる。そこには、知人もなく、友人もなく、恋人もない。吾々は単独で途を切り開かねばならない。発足は同時に開拓でもある。
足下に、きびしい境界線が引かれているのである。この一線を真に乗り越すには、決意の合間のたゆたいの一瞬、深い寂寥に堪え得なければならない。
斯かる寂寥を、誰が感じたか、また誰が感じなかったか、私は厳密に設問したく思う。返答は応か否かの二つしかない。否の返答者については、新時代の名において、私はその人の言動の誠実さを疑いたい。
そういう瞑想は、更に私を寂寥の深くへ沈ませた。眼前のひっそりとした眺望と、それに伴う瞑想とは、互に表裏をなしてもつれ合い、それが明るい静かな斜陽に輝らされてるだけに一層淋しく、その時もしも私に恋人があったならば、恐らくその名を私は呼んだでもあろう。(『或る日の対話』豊島与志雄)