「鯛焼きひとつ、鯛抜きで」

クリープハイプとPublic Relationsが好きな、webライターの雑記

田中慎弥の『共喰い』に興奮するのは悪いことじゃない

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田中慎也といえば、2012年1月17日、第146回芥川龍之介賞を受賞した作品として知られており、当時都知事だった石原慎太郎に対して「都知事閣下と東京都民各位のために、(芥川賞を)もらっといてやる」と発言したことが話題になった。

でも、作品と人格は別の話。ここではきっちり『共喰い』に向き合いたい。 

読み返すと、やはり印象的なシーンは多々ある。

 

誕生日に社で、まだ来てもいない闇の中に子供達を見たのと似ている。あの時境内に、本当に子どもがいたのだろうか。何もかもが遠ざかって消えてゆく感じがする。なのに、昔からこの川辺にあって何も変わらない全てのものが、いまのまま残り続けてゆきそうでもあった。錆が浮いて茶色い筈の橋の欄干が骨に見えた。

「鰻、取りに、魚屋。」と乱暴になった言い方が父に似ていると感じ、また浮んできた鰻の頭が一階の天井と階段の手摺の間に見た赤茶色の性器と重なった。鰻の血が琴子さんの腹に入り込んで成長してゆく。腹の子と、琴子さんの血と肉と骨を全部掻き出したあとで自分の性器を突っ込み、琴子さんを満たしたかった。

死んだように女が動いていないアパートの壁に、熊蝉が一匹張りついている。鳴いてはいない。自分が眠っているすぐ傍に蝉がいたのだと、女がこの先、知ることはない。自分もわざわざ教えてやろうとは思わない。まるで蝉が止まっていないのと同じようなものだ。すると、女と蝉を同時に見ていることじたいも、嘘だという気がしてくる。なのに赤犬は確かに吠えている。牙が白くて小さかった。(『共喰い』田中慎弥

 

あらすじはシンプルだ。

主人公遠馬の父親が、妊娠させた女性に逃げられる。それにキレた父親は、遠馬の彼女をレイプする。そして、遠馬の生みの母親が、元夫を殺す。そういうおはなし。

中学3年生の頃、この作品に触れた私は衝撃を受けた。なんだこれ?!と。性的な描写がここまで直接出てくる作品に触れたのは初めてだった。

いや、正確にいうと、小学5年生の頃大槻ケンヂのエッセイ『神菜、頭をよくしてあげよう』を読んでいたため、完全に初めてというわけではないものの、大槻ケンヂ作品に関してはポップな文体と、実在の人物が書いているという一種の安心があったので、過度な刺激は感じなかった。

 

ただ、『共喰い』を読んだ時、私は特筆すべき感情を抱いた。

それは、高揚感だ。

「イケナイもの」を読んでしまった自分は、河川敷にある倉庫でエロ本を見つけた小学生の気持ちだった(ちなみに私にはその経験はない)。鼻息を荒くしながら、飛行機の中で『共喰い』を読んでいた。鼓動は速く、なんなら軽く勃起していたと思う。

 

だが、そんな私も、筋金入りのド変態ではない。『龍が如く 3』をプレイさせてくれる叔父の部屋でAVを見つけ、見て見ぬ振りをした小学4年生のあの日。自分が犯罪者になった気すらした。見てはいけないものを見た、と。

……あれ、ていうか小学生に『龍が如く』をやらせるかね?

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『共喰い』を読んでいる時、私はたしかに、能動的に「イケナイもの」と向き合った。こんなものを読んでいる自分、に陶酔していた部分もきっとあるが、興奮が私の背中をゴリゴリに押し倒したのもまた事実である。いや、押し倒したというよりは、エンジン全開!フルスロットル!的な。

 

思春期は性的なものに興味を持つ時期と言われるが、思うに、「イケナイもの」に向き合える心が出来ていく時期こそ思春期ではないか。

グロテスクなもの、スプラッタシーンにもR-15、R-18などの階層的年齢制限があるし、そこに関しては犯罪を助長する表現が云々とのことだ。でもぶっちゃけ、どの年齢でも影響は受ける。ただ、15歳やら18歳やらになっていれば自己判断が出来るだろう、と社会は見做すわけだ。

逆に言えば、思春期の若者にしたら、ここで初めて認められるわけだ。いっちょまえに、「イケナイもの」に向き合うことを。そりゃテンションが上がらないわけはない。

 

しかし、この階層構造こそが「憧れ」を生み出していることは無視してはいけない。R-18作品を見たい……と思ううら若き少年少女は当然いる。この階層構造がなかった場合、彼らは果たしてTSUTAYAの例の垂れ幕に羨望の眼差しを向けただろうか。

こうして「○○ エロ」と検索して出たサイトのバナーをクリックしてしまい、架空請求の被害に遭うのだ。親に泣きながらすがりつき、罪を「自白」するわけだ。

 

経験したことないですよ?